【紅茶時間】11月1日は紅茶の日!【由来は?記念日?】

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【紅茶時間】11月1日は紅茶の日!【由来は?記念日?】

毎年11月1日は紅茶の日

ゆったりと紅茶を淹れて、風味に身をゆだねませんか。

普段から紅茶を飲む方も、偶に飲む方も紅茶楽しみたい1日です。

 

なぜ紅茶の日と決められたのかご存じですか?

秋は食欲の秋だから?実は壮大なドラマがあったんです。

 

調べてみると本当に興味深い理由でした。

今回は11月1日が紅茶の日と定められた理由についてご紹介します。

 

 

時間がない方は、まとめでざっくり理解しちゃいましょう!

この記事のまとめ

  • 11月1日は紅茶の日!
  • 日本紅茶協会によって決められている
  • 由来は日本人が初めて外国のお茶会に呼ばれ、本格的な紅茶を飲んだ日
  • 鍵は大黒屋光太夫の人生にあり

 

 

 

 

紅茶の日はいつからできた?

紅茶の日は1983年(昭和58年)に日本紅茶協会により選定されました。

想像以上に最近のことですが、由来となったエピソードはもっと古いものです。

 

日本紅茶協会

1939年に紅茶協会として設立。

紅茶の輸入自由化が行われた1971年に現在の新しい組織に改組されました。

幅広く紅茶事業に関する活動をしている国内唯一の紅茶関連業者の団体です。

 

紅茶の日の由来は「日本人が初めて外国のお茶会に呼ばれ、本格的な紅茶を飲んだ日」です。

いつ頃、誰がお茶会に呼ばれ、紅茶を飲んだのでしょうか。

 

紅茶の日の由来

紅茶の日の由来となった「日本人が初めて本格的な紅茶を飲んだ日」は、1791年(寛政3年)の11月1日のこと。

伊勢の国(現在の三重県)出身の大黒屋光太夫という人物が、ロシア女帝・エカテリーナ二世から正式にお茶会に呼ばれました。

 

寛政3年といえば江戸時代後期にあたります。

欧州ではすでに紅茶が広まっていた時期ですが、鎖国真っ只中の日本で紅茶は普及していませんでした。

 

大黒屋光太夫は船頭(船をこぐ職業の人)を生業としていました。

なぜ船頭の黒屋光太夫は、遠い異国の地であるロシアで、しかもロシア女帝からお茶会に呼ばれたのでしょうか。

実は黒屋光太夫という人物の数奇で壮大な人生が関係しています。

 

ポイント

正式な場で紅茶を最初に飲んだ日本人が天皇陛下や将軍などではないという点も面白いですね!

 

黒屋光太夫とはどのような人物か

大黒屋光太夫(1751-1828)は伊勢国白子(現在の三重県鈴鹿市)の港を拠点にしていた船頭。

船で物資を運び生計を立てていました。

 

大黒屋光太夫が何故ロシア女帝からお茶会に呼ばれるまでになったかと言えば、

漂流してロシアに流れ着き、辛苦の生活の中で、執念でロシアの高貴な方のお茶会に招かれる幸運を掴んだ」から。

 

黒屋光太夫の人生には多くの苦難がありました。

まずは彼の足跡をたどってみましょう。

 

人生を変えた海難事故

1782年、白子港から黒屋光太夫が率いる廻船・神昌丸が出港します。

船員は総勢17名。

米や木綿などを積み江戸に向かいました。

 

しかし出港から4日後、嵐に襲われ、神昌丸は遭難してしまいます。

 

黒屋光太夫らの漂流約7カ月にも及んだと言われます。

長い漂流の後、よやく彼らがたどりついたのはロシア領アリューシャン列島の小さな島アムチトカ。

約4年間、黒屋光太夫らは厳しい寒さと闘いながらアムチトカで過ごすことになります。

 

帰国を望む黒屋光太夫

多くの仲間を失いながらも黒屋光太夫は日本への帰国を諦めませんでした。

帰国嘆願のためにシベリア本土のカムチャッカ半島に渡ります。

 

しかし、残念ながら黒屋光太夫の帰国は叶いません。

鎖国中の日本への帰国は難しく、カムチャッカ半島での嘆願は却下されたのです。

 

諦めきれない黒屋光太夫は、帰国許可を求めてシベリア横断を決意。

首都サンクトペテルブルクを目指し、約1万キロを超える距離を横断することを決めました。

 

ポイント

首都サンクトペテルブルクを目指した理由は女帝エカテリーナ二世へ直接帰国の嘆願を行うためです。

 

女帝エカテリーナ二世への謁見。そして帰国の途へ

多くの困難と厳しい環境に耐えながらも、執念で黒屋光太夫らは首都サンクトペテルブルクへ到着しました。

アムチトカに漂着してからすでに8年の月日が経っています。

 

並々ならぬ執念と努力が報われついに女帝エカテリーナ二世への謁見が認められます。

 

黒屋光太夫らの境遇に同情した女帝はすぐに帰国許可を与えました。

翌年、黒屋光太夫らはついに帰国の途に就きます。

漂流から約9年半のことです。

 

ですが、帰国したのは黒屋光太夫の他、2名だけ。

ロシアに帰化した人もいましたが、如何に苦しい9年半であったかが分かります。

 

紅茶の日となったお茶会

黒屋光太夫は謁見から帰国までの間に、非常に優遇された生活を送りました。

実際に、ロシア皇太子や貴族、政府高官から招待を受け、ロシア文化に触れています。

ですが、黒屋光太夫は何故優遇されていたのでしょうか。

 

女帝が同情をしていたということもありますが、一番の要因は欧州諸国やロシアと日本の関係にあります。

 

日本への足掛かりに

欧州やロシアは大航海時代を経て世界の覇権を握っていました。

その中で、鎖国状態の日本は特殊な立場にありました。

宣教師によるキリスト教の普及も順調とはいかず、侵略するきっかけがないまま、鎖国されてしまっていたためです。

 

悪い見方をすれば日本侵略の足掛かりを探していたとも言えます。

あるいは日本との外交を広げるきっかけを探していたのかもしれません。

 

思惑はともかくとして、女帝エカテリーナ二世も黒屋光太夫を何度も呼び、日本について語らせています。

黒屋光太夫がエカテリーナ二世の文化事業に協力していたことも確認されています。

 

黒屋光太夫の功績。連日の晩餐会

ロシア女帝に何度も招集されることはとても名誉なことでした。

黒屋光太夫はロシア貴族の間でも注目され、晩餐会に引っ張りだこに。

首都ペテルブルクで過ごした約半年間はほぼ毎日、晩餐会に招待されていたなんて話もあります。

 

黒屋光太夫の注目度や功績からペテルブルクを離れる直前、ついにエカテリーナ二世のお茶会に招かれます。

1791年11月1日のことです。

 

日本人として初めて、本格的なお茶会に呼ばれ、紅茶を楽しみました。

この日を記念として日本紅茶協会は「紅茶の日」を定めたのです。

 

黒屋光太夫の波瀾にみちた人生

黒屋光太夫の波乱にみち、壮大な人生は多くの物語になっています。

興味がある方は是非お手に取ってみてください。

 

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小説のため、若干史実と異なる点もありますが、黒屋光太夫の人生を楽しめる物語となっています。

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紅茶の日は自分の楽しみ方で紅茶を飲もう

いかがでしたでしょうか。

紅茶の日には一人の男の壮大な人生によって作られた日でした。

 

波乱に満ちた人生に思いをはせるも良し。

ゆったりと紅茶に向き合うも良し。

あなたは紅茶の日はどのように紅茶を楽しみますか。

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